48号室 - シバミノルのブログ。脳みそから絵を吐く時と其の周辺のメモ。雑記保管所。

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05

02

18:52
Wed
2012

No.0142

ない と 黒 について

またもや感想文のようなものを。





先日、さつかわゆん さんの個展「なにもないところ 」を見ました。

前回のブログに書きましたが、私は展示の感想は多分書けません。
その展示で、作品の前で私が一方的に何を思ったか、考えたか体験を書きます。
予め、ご了承ください。

×

「なにもないところ」のDMを手にしたとき、またブログを拝見したとき、苦い思い出がフラッシュバックしました。
もともと楽しみにしていたのですが、更に見たいと思いました。
下記、本題に入るまで少し話がそれます。

×

大学三年の夏に 夏の集中講義 とゆうのがありました。
夏休みの必須科目、小さなホールに系列の学生がひしめき 3日間(土日返上のため5日間、殆ど寝ず)ディスカッションをして、最終日得たことを上演方式で発表する。
考え方、企画書に先生方のOKが出ないと次の段階に進めず、発表させて貰えない。
私にとって卒論ゼミの次に 頭と身体がえぐられてヘロヘロになった講義でした。

表向きは「何故、働くのか?」とゆうことを軸に話し合う講義。
でも其れは本当の狙いではなく、前提、常識、価値観、言葉、概念を一度疑い、ズッタズッタに壊させるとゆうようなことだったのでは と思う。

「働く」「仕事」とゆう確固たる意味合いのありそうな言葉のもつイメージを最初の2日間でズッタズッタにされる。
それがそういう意味と思ったのはいつ?本当に自分の考え?何処かですりこまれていないか?常識?常識とは?我が物顔で言葉を使った途端、総攻撃を受ける。
次第にその言葉が指してるものがグニャグニャにされてゆく。

そして、私たち(先生)の言葉を信じるな と言われる。
着地は許されず常に宙に浮けと言われる感じ。

(今思うと ここで宙に浮けるか頑固に他人の言葉にしがみつくか 考えることから逃げるかで その後の考え方はだいぶ違ったんだろうと 今は思う)

自分の考えていることを借り物ではない自分の言葉にして誰かと共有し、今度は皆に判って貰える形式に置き換える。
こう書くとスマートだけど、ドロドロジトジトした五日間だった。

其処で私たちの班が最初に言ったことは「からっぽ」とゆうことだったと思う。私たちはからっぽです。と。
なにもない。「どうせからっぽですから〜」とゆう投げやりな話ではなく、追い詰められて、何も持っていない気がしてしまった。

それをまた先生方に突っ込まれる。
本当に無いのか?生まれてこのかた、ずっとからっぽか?そんなのふざけている、本当にからっぽなら終わっている、というような事をもっときつめに言われたんではなかったろうか。

確か、其処で私たちは「もっているもの」が何か整理できず、何なのかが自分で判っていない とゆうようなことを考えた と記憶してる。

×

ゆんさんの展示の説明を読んでそんなことがフラッシュバックした。

多分、作家の考えとは誤差があると思う。だけど、あの夏、友達とノートをごちゃごちゃにして自分をズタズタにして白目向きながら到達した考えにこのひとは一人でたどり着いたのかしらと、また違う結果なのかと興味をもった。

+

話は展示されていた作品に戻ります。
人通りの多い廊下の、たった二面に大小の作品がびちっと並んでいました。
横にはテントが張られ、中では展示を読み解くためのヒントのようなアニメーションが流れていました。

+

飾られた作品の殆どは背景が黒い。
なにもない(ように見える)ところ の真ん中に、一つのモチーフ(とその周辺)が出現している。

その絵で真ん中にあるものが主役なのか、それとも暗闇を見たら良いのか、多くの人が行き交う初日、私は判らなかった。
仕事のあとに再び訪れ、何かを自分に引き寄せようとした。

他人の作った 判るか判らないもの、きっと分かりやすく提示されたものを 自分に自分のアプローチで引き寄せて咀嚼してみる。

光力の弱い懐中電灯を持って、暗い部屋の中を歩いているような感じ。
ふと小川洋子の短編を思い出す。

または手品師の手元のクローズアップ。顔の見えないマジシャン。
つむじ風食堂の夜』を思い出した。

暗闇の中、其処には気球が、横には割れたドームが、緞帳から無数の脚が、その横には電球が…
絵で別れていても其れらは同じ場所にあるような。
ライトが当たって中央にぱっと現れたような印象。

一つの絵の黒い背景となった部分には確かに何もないけど、在る。
一つ一つしか照らせない。
一つ一つを丁寧に確認するような感じ。

そんな事を妄想して、きっと解放/開放されたイメージを前に勝手に行き詰まって少し涙が出そうになった。
あの時、この絵をみていれば、私は少しだけ先に行けただろうかとか。
なあんも判らなかっただろうかとか。


それは恐らく作家の意図とは違うだろう。リンクした部分もないだろう。
だけど、私は其処で私を知れて何だか救われたような気がした。

+

また、ひとつの絵が見初められ旅立ってゆくのを傍観していた。
モチーフにそのひとが寄り添ってゆく、そしてその絵の中の出来事を自分の出来事にしてゆく。そんな風に見えた。
きっとそんな余白がある作品たちなのだろうと思った。


だらだら書きましたが、良かったのです。私にとってあの時間は。

おしまい。







04

27

18:57
Fri
2012

No.0140

黒い展示室、鉛筆の線の前で雄弁なタイトルを飴の様に舐めてみると自分の味がした

またも振り返り記録。
振り返る時点で最早、何か感想ではないだろう、な。

先月、(先日感想を書いた「聖少女」を見た翌日)日曜なのに早起きをして単身横浜へ行った。松井冬子個展、最終日。

午前中の美術館なんて来た事あったろうか。

最近、薄々思うのは私は絵を語れないとゆうこと。作品が表象しているものやその奥にある物は語れないとゆうこと。

私が記せる物、何とか言葉にできるのは「体験」です。
間違っても、作家への考察ではない。展示の大きい小さいに関わらず、私がかけるのは「その作品を前にした時、私がどうなったか/どう思ったか」とゆうこと。

多分、作品を前にして私は作品を見ていない。作家のほんとうのところなんぞ考えていない。
歴史とか背景とかコンセプトとか作家の考え思い云々なんてどおでもいい、作品に興味が湧いたらば目を通すよって思う。まずは作品と私。

私は私にしか興味が無い。多分。

絵や音楽を前にする時、私は私を知りたくてそれらを前に立っていて、身体の中に引きずり寄せるのだと思う。
引きずり寄せたい物だけ選んで他は簡単に足蹴にしている。




時たま、この絵を前にすると云々かんぬんに思いを馳せ、これを描いた人はきっとこんな人なんじゃないとか、そうゆう文章を見ると、
ああなんだかそれは、顔のシュッとした男子を捕まえてお好みのアイドルのイメージを貼り付けて妄想する中学生女子によく似た何かだと歪んだ見方をしてしまう。

失礼とは思いつつ、捻くれた私はそう思ってしまう。
だったら、最初っから私はこの絵の前でこんな妄想をしましたとゆう感想文を書きます、でいい、いいと思う。

だって妄想が始まったらコンセプトも解説も背景もただの貴方の辻褄合わせじゃないのって。
答え合わせしてたのしい?そうゆう楽しみ方でいいのか、いいんだなぁ、人それぞれだもんな、って。
感想を綴った人への興味が失せてしまう。駄目だなぁと思いつつ。

(自分の作品がどうこうゆわれるのは気になって耳を傾けているのに、何だかとても矛盾している、矛盾ばかり。)


話がずれた。
松井冬子の展示会場で、絵を前にして、私は何だか解らん涙を我慢して、気をつけをした。ただそれだけ。
「それだけしか」体験できなかった。

妄想も出来ず、音も聞こえず、ただ順路に従って優等生だった。

涙を我慢したのは、卒制のほうの『世界中のこどもと友達になれる』。
あれは意味は後からでいい。意味は解らないけど身体に力が入って仕舞った。力まないと倒れるような感覚。


気をつけをしたのは、世界中の〜を含めた構想、スケッチ、習作、下絵。
これは見れて本当に良かったと思った。図録ではまるで足りない、展示されていたから良いのだと思う。

画のおどろおどろしさよりも鉛筆で描かれた絵が置かれた部屋、彼処が一番恐かった。目眩がした。逃げ出したくなった。

わかった風に言うわけじゃなく、この人、この展示を作った人は、松井冬子の魅せ方が上手いんだろうと感じた。

導線に、引きずられるような感覚。
頭の中で思考の順路が組まれてく。字を解説をタイトルを読まなくたって感じれているような感覚。

私は、上手く提示された 執念 のような物に気をつけをしているような気分になった。

多分、目の前にあるそれらを自分に足りない部分に引き寄せて勝手に反応したのだと思う。
絵よりもその姿勢に慄いたとゆうのは、私の感覚で感想で、そのもとは私の中にあるわけだから。

それを反芻して図録を見て気をつけをする。あの時、見にゆけて良かった。絵のパワーだけでなく、自分の何かに反応出来たから。
図録と展示はまるで違う。違う。
いい展示だったとかは解らない。基準を作れる程展示を観ていない。
でも私にとって多分見るべき展示だったのだなぁと思った。


執念 てゆうのはこうゆうことをゆうの。知らないで言葉だけ使ってたよって、そんな感じのことを思ったのです。
04

20

21:29
Fri
2012

No.0139

綺麗な色した闘い に 嫌われにいってきた

三月、非実在聖少女 展 とゆう展示を観た。

記憶をたどって書くのでだいぶあやふやになる と思う。
気をつけるけど、多分気取った文になる。ご了承を。

++++

四人の女の子が、仲良しごっことはまるで違う表情で、闘う/展示をする とゆう。
絵よりもそこに興味を持った。何それ、ちょっと期待しちゃうって。

彼女たちの徹底した「パフォーマンス」は面白いと思いました。
告知も「業務的」ではなく、表現として行っている感じ。
爽快さで他人を惹きつけるって(しかも私なんかを)、すごいなぁと感心をしました。
私には 無いもの がある。じゃぁ観たいって自然に思った。

「あたかも凄い方たちの展示」感を「装う」事が上手で、へええええっと。
判ってないでやってる痛々しさは其処にはなくて、ああ判っていて仕掛けてるんだろうな、そりゃ引っかからねばとゆう気持ちだった。

++++

ただ、いざ会場に入ると告知での表現との差に少し戸惑った。

場に慣れるまで、たぶん彼女たちのルールを習得するまで少し時間がかかった。

描かれ並べられた「聖少女」は思っていたよりも彼女たちの等身大という印象だった。(別に私は彼女たちを知らないのだけど、そう思った)

大きい事 言っているのだけど、ああそれとは違う 少しじとっとした感じ。
それがとてもいい雰囲気。私は少し安心したのだと思う。

個展前とゆうのもあって少し護りに入って鑑賞していたら、途中で護りどころを間違ったなぁと。
気づいたころには遅くて、絵からじとっと染み出すガスにくらくらしてしまってなかなか立ち去れなくて、ハハーンとなった。ハハーン。遅いのだけど。

これって、なんなの?
若さとかゆう判りやすいものなの?

++++

気持ちの良いラインを眼で追う。
追った先に違うラインの入り口がある。休憩出来ない。
足の裏から人工芝の感触。
絵の合間の黒い壁。
なかなか目が合わないこちらを向いた少女たち。

自分のグラグラした輪郭を知らない女の子に撫でられてる厭な感じ。
知らないんじゃなくて、正体が解らないてゆうのか。
睫毛、眼球、指の間、足の裏。


自分の第一印象に騙されて、考え直す、新しい印象が生まれる、騙される、考え直す、生まれる、考え直す…

私はループにはまると果てしない。
一時間ほど誰かと喋ったり、話しているのを聞いて(いるフリをして)居た。

最終的な印象は 調和 だった。
思ったよりも四人の絵は溶け合っているように見えた。
それは話し合い、テーマや構想を練る段階から四人だったからとゆうだけなんだろうか、なぁ、違うだろう、なぁ、と思った。上手く言えないけど、敵は横にいるんじゃなく、戦場は此処じゃないんだと思いました。

もう少し、痛ぶり合いとゆうか殴り合いとゆうか不協和音を期待して居たので眼が慣れたあとの印象が意外だった。

不協和音は少女同士に流れてんじゃねえのかって、先述しましたが、判った時点では遅く後ずさり。

私との間に不協和音が。鑑賞者を突き飛ばす様な音。四人がかりで床に身体を倒さんとするような音。
会場に音楽は流れてなかったけど、ヘッドホンをして知らない曲を初めて聞くような感覚だった んだと思う。

パワーって言っていいんだろか、
すまして言うなら、聖少女に跪いて命乞いって感じだろうか。

絵を観るとゆうよりは展示自体が作品とゆう感じなのかなぁと。
あのとき、観にゆけてよかった と思える展示でした。

おしまい。



04

16

23:19
Mon
2012

No.0138

「ふたご」のかけらを舐めてみる

個展が終わってから二週間も経った。
もっと昔な気がする。そういえば、ほぼ余韻というものが無かった。

初日から「展示した絵を描いていたわたし」と「いまのわたし」の差を感じていて、
それが最終日に修復不可能なひびになっていた感じがする。

だから振り返るというのがどうもリアルではなくて、どうしようかと思っていてもう四月中旬。
あのとき必死でぐるぐるしていた場所とは違うところでぐるぐるとぐろを巻いていて景色がまるで違う。

+

モザイク

振り返るときっと他人事になる。
今ままで舐めたことのない飴を舌の上で転がして「これはあの味に似ている」と表現する感じになると思う。
私はすぐ忘れてしまうし、すぐ変わってしまう んだなあと最近よく思う。
「ふたご」のかけらを舐めてみる。

告知の段階でこんな言葉を書いている。

* * *

「頭などが繋がった双子。お互いに都合の良いところだけ共有する精神的なシャム双生児」
「人の頭からコードが延びて、他人の頭に接続され、一部分だけ抜き取られ同じ同じと思われてしまう。共感されてしまう。」

* * *

・・・別に都合よく共感されたっていいじゃないか。
別に全部さらしているわけでもないし、そもそも「正しく」共感なんてあるのか。
と今はそんなことを少し思う。


「ふたごのほし」でどうにか形にしたかった「ぐるぐる」はとてもネガティブなものだと思う。
絵や部屋の雰囲気は、居心地がよく柔らかいものだった。
やわらかくて、かわいらしくて、まあ少しはピリッとしているような、腰を下ろせば落ち着く。
とても判り易いものばかり、他人が見やすいものばかりを持っていったつもりだった。

でもそういうことじゃない。
そのまんまの柔らかさを形にしたかったわけではない。

+

わたしは相当他人と接することが苦手だと思う。
ぱっと見て「好き」と思うことよりも「すげえ嫌い」と思うことが多い。だいぶ損をしている。

一目ぼれなんぞ、「物」に対して思うものと思ってしまう。
「他人」と思わないからできるんだろうなって。
といいながら、私は「一目嫌悪」を毎度してしまう。

距離のとり方だとか、表情だとか、些細なことで判断して(全然些細なことではないこともあるけれど)
自分に心地いいか悪いかだけで取捨選択している、と思う。他人を。もったいない。
心地悪いというのはこのひととあと5分いても私になんのプラスもないなあというような感覚。
何様だよ、それって感じで恥ずかしいけど、そういうこと。

嫌いだなあ と思っても、多くの場合は露骨に態度に出さないのだと思う。
その場の心地よさを作り上げることに奔走してしまう。
我慢した分、その相手をどんどん勝手に嫌いになってしまう。
一度ついたマイナスはそうそうプラスには転じない。

幼いなあとは思う。
でも治してまで、苦手な他人と関わりたくないとも思ってしまう。
対人関係、他人との接し方にはかなり難ありな人間です。(決してそういう自分を諦めも肯定もしていないですが)

+

時々その「心地いい」に分類された人たちの基準ってなんだろうって思ってしまう。
私はその人を勝手に自分の「ふたご」に仕立て上げていないのかと。

誰かを前にして「この人はなんだか私に似ている」と思ったとき、何かと出会うきっかけをなくしてしまっているんじゃないかと思う。

また「このひとの考えていること、私がまさに言葉にできなかったこと!」とか「判るわかる!」と思った瞬間、それってその人の言葉を本当に理解してないんじゃないかと少し冷静になってから思う。思って吐き気がしてしまう。自分に。
そうやって 相手 と知り合うチャンスを何度つぶしてきたんだろうと考えると気分が悪くなる。
折角、好感を持てた相手の輪郭を油性マジックでつぶしてんじゃねえかと恐くなる。

目の前にいるひと や 
Twitterなどでやりとりをするアカウントの中の人 や
こちらが一方的にブログを読んでいるひと とか
わたしは知らぬ間に自分にとって「都合のよい存在」に仕立てあげていないか と思う。
自分にどこかが似たような相手を想定して、疑わずに喋っている。


それでいいのかなあ、気持ち悪いなあって。

+

それと同時にひとに影響を受ける というようなことをぐるぐる考えていたと思う。
多分、わたしは、こんなに他人を警戒して嫌っておきながら、どんなひとからも影響を受け易い。
プラスにもマイナスにも。

そうして自分の中に、また自分の言葉・絵の中に自分の接した誰かが使っていたそれとよく似た箇所を見つけた瞬間、不安になる。
自分自身が完全で完璧なオリジナルで居たいと思っているわけではない。

自分は実はからっぽで中に詰まっているのは全部他人から吸収した都合の良い言葉や考えや物なんじゃないか 
わたしってそれだけ、本当にそれだけで出来ているんじゃないか と不安になる。
それぞれの部品を自分の中に入れようと取捨選択しているのが「自分」ということはスコーンと抜けて
それを思い出したとしても、不安になってしまう。

+

このなんだか自分の分類の仕方では近いところにいる

・自分に都合の良い相手を量産しているんじゃないかという不安
・自分の中身は全部他人からコピーした部品という不安

ふたごの不安が絡み合って今まで意識的・無意識的に描いた「ふたご」はできたのだと思う。

+

あんな判り易い絵を飾っといて、絵の前で「何だかこれって、判る気がする」と
誰かがもらしてくれた言葉を面と向かって否定する展示だった。
「だから、わたし、それが厭なんだよ。」って。
「貴方が心を寄せているのは貴方にじゃないの?」って。

そんな弱弱しいアホな攻撃をしていた。
ひとに判って欲しいのか判られたくないのか。
このいつもの誰かとの距離のとり方の不器用さ具合全開の展示だった。

そもそもの前提がおかしい。見る人は違う人間なんだからなあって。
弱点も人との距離感も違うのになあって。

結局のところ、私が部屋にいてしたことは、かっさばかれた弱点の悪臭に鼻をつまんで
マスクをして描いていた頃の自分を思い出して、そのころの私に都合よく同化して誰かにそれをあたかも自分のことのように話すということだった。

期間中、私が私を捕まえて沢山「ふたご」をつくってしまった。
最終日にはわけがわからなくなってしまっていた。

そんな展示でした。文章ぐちゃぐちゃだけど。
弱点だと思っていたものの根底や側面に他にもいっぱい痛々しいところを見つけてしまったというか。

+

そんな味がするんだと思う。
だいぶ矛盾した箇所はあるけれど。

好きと嫌いなんて表裏一体で。
好きの基準を疑うなら嫌いの基準を疑ってより多くの人と付き合って行った方がいいのかもなあ とは思う。
でもそれをしない、できない、そこらへんの痛々しさが自分なんだろうなあっていうのをここ数週間、考えてた。
04

09

00:30
Mon
2012

No.0137

「ふたごのほし」からのとうぼう

四月も二週目だ。早い。
まとめを先延ばしにしていても仕方がないので個展の振り返りをします。咀嚼。


+

ふたごのほし


先日、ミニ個展「ふたごのほし」が無事終了しました。
足をお運び下すった皆様、気に掛けてくださった皆様、あらゆる面でサポートしてくれた皆様有難うございます。
この場を借りて御礼申し上げます。

本当に、遠くから足を運んでくださった方々もいて、うーん走っていて敬礼をしたいくらい。
二度来てくださった方もちらほら居て、そこもなんとも、ありがたく。

また迷子で体力を奪われたり竹下通りでボロボロになり、スタッフの方に部屋まで連れてこられる方も多く・・・・・・ごめんなさい。ありがとうございます。

+

ふたごのほし2


反省すべきことは多々ある。
多々あるのだけれど、嬉しかったこともたくさんある。

いろいろといつもと違う反応があったこと。
自分で思っているより「ことば」に反応してくれていた方が多いこと。
誰かが入り込む隙間のある絵とやらが少し判れたこと。


あと和室のせいか、音楽のせいなのか、「長居」をしてくれた人が多かった。
これはまるで想定していなくて、驚いた。

私が居るときも居ないときも展示場所で長めの時間を使ってくれる方が割といらっしゃって
ああ凄いことなんだなあとありがたく思いつつ、それはまるで気を遣わないですむ友達の家でくつろぐ姿のようで面白かった。

一度部屋を離れて戻って来た時、知らない人がペタッと床に座っているのを何度か目にした。
うわお と焦りながら、ばれないように、その場を立ち去ってトイレや自販機の前で時間をつぶしたりもしていた。
あーこういうとき煙草が吸えればいいのかと思ったりもした。

+

ふたごのほし3

今回、言葉の要らない絵をいっぱい描いて、たくさん置いたつもりだった。
いままで、そんなことはしたことがないんだと思う。多分。意識的には。
でも元々言葉で伝えることが下手だからか、言葉があった方がいいとたくさん言われて戸惑った。
戸惑ったのだけど、それは結果的にとても良い指摘だったと思う。
結果、たくさん「言葉」を頂いた。うーん上手く書けないけど、感謝。感謝なのです。


+

ふたごのほし4

そう反省すべきことは多々ある。それはそれは山のようにある。さっき一度下書きしてみて、引いた。
これは書けない、此処には書けない。いま書くとお越しくださった方々に失礼。なのでまた今度にする(結局書く気ではいる)

でも、ある方面に判る言葉にするのなら、展示をするまで腹を括って一つのものをじっと抱えきれなかった。
急に「切実」なものでなくなってしまった。
たとえ直接的にそうでなくなっても、それを強い武器に作り上げ、裏テーマをぶっさすということも出来たであろうに、それも出来なかった。

敗北であります。

軽く聞えますが、初日から徐々にうなだれ始め、今 洞穴に引きこもっている感じ。
ある程度こうなることを予想してやろうと決めたこと、甘かった。
一度似たようなことを呟いたのだけど、他人にに成りすまして、その時の感情を想像して、
他人の部屋で一生懸命「わたし」という他人を演じていたように思う、八日間。だから長かった。

何かずれているなあぼんやり感じていたのが絵を置いた瞬間、はっきりとした距離で見え始め、来てくださった人よりも「ふたごのほし症候群」(※友達に貰った言葉を拝借)になってしまっていた私。

少し前の わたし=虚像 に一生懸命同化して満足しようとしてしまっていた。
敗北であります。負け渦の中で自分の仕掛けた罠にはまるという痛々しさ。
それは、とても苦しく、でも闘わねばならないことだなあと唇を噛み締める展示でした。
これは次に活かさねばならない。踏み台にしてはゆるいものになってしまったのだけど踏み潰す。しっかりと。

+

まとめきれませんが、終了後 第一弾の咀嚼(反省会)ということでお仕舞。
期間中、何枚か置いていたコンセプト文はブログに載せないことにしました。(載せますといってしまった方すみません)似たような文を次回書ければ と思います。・・・書きます。


言葉ってすぐ腐ってしまう感覚。それって定まってないということなんか。