48号室 - シバミノルのブログ。脳みそから絵を吐く時と其の周辺のメモ。雑記保管所。

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No.0

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11

04

12:36
Mon
2013

No.0168

こころのめもだ

ネットでのつながりはうんざりしてしまうことがとても多くて
「ブログ読んでますよ」っていうのもそのひとつでいやになる
ならないこともあるのだけれど、言われるたび、だからなんなんだ
貴方はわたしの何を知っているというのだ、たとえばいま私が感じている
不快感とかは?感じられてすらいないのに何が「ブログ読んでいますよ」だと思ってしまう
うっとおしい

善意をそのままうけとめられない
うけとめられる善意や好意ばかりではないわけです
作品の評価はうけとめられるけど、じゃあなんで気の合わないひとと「友達」にならなくてはならないのか
うけとめられないだけならいいけれど
うけとめられないひとにはこういいたたぐいの不満はたいてい伝わらない
感受性のたかい ここちよいひとだけはなれていき
どんかんで じぶんのことだけがだいすきな なにより気の合わないひととのつながりばかり残っていくような恐怖

だから新しいブログを初めてもこちらにリンクを貼るのを躊躇していたし
簡易HPを作ってもリンクを貼るのを躊躇している

でもこちらを消さないのは 展示の感想を多く書いているから
読み返すひとなどさほどいないだろうけれど
もしかしたらいるかもしれないし リンクをはっているひともいるだろうし
と消せない

それに自分の心の中がどんどんかわっていって
過去を少しでもひもときたいとき わたしだって読み返すだろうから

このままお墓のようにここは残します

もうすこし気持ちの整理ができたりまたは大々的に告知をせねばならなくなったときにリンクをはろうと思う
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06

26

18:52
Wed
2013

No.0167

検討中、

脳内をただだだ漏れにしていく危うさと煩わしさがずっとある。

誰かに発信したいわけではないのだけどインターネット上に晒す時点でそれは「発信」をしていて
その「誰か」というのは誰でもいいわけではないのにこちらでは一切決められない不愉快さ。
こちらでは決められないというのは別にネット上だけではないのは分かっているけれどああネットでもかとたまにイライラする。仕方がないのだけれど、それは発信の仕方や量や中身を変えればいいことなんだよなと最近思う。

たとえばネット以外の関わりでもネットでの発信を引用されそこでの解釈を貼付けられ先方のイメージを強要されているんじゃないかとたまに不快になることがある。
わたしは貴方だけに何かを発信しているわけではないのに、全部拾ったかのような装い。正直めんどくさい。
そして同じようなことを私もしているんだろうなという不愉快さ。
道具は本当に使いようである。本当にそう思う。いろいろ切り分けて活動したい。
自分の欲していないイメージを持たれるということを意識しながら発信しなければいかん。いかんと思うけれども正直めんどくさい。

なので一度こちらのブログを閉じようと思う。
閉鎖にするかそれとも閉じずに更新をしない形にするかは検討中。(閉鎖よりに検討中だけども)
加えてこちらに新しいブログのリンク先を掲載することも検討中。

今までを一掃して新しくしたい。
ブログも書くけれど今までと変えたいと思う。
なんだろうね、的外れな心配を贈られたくないし、それがとっても疲れた。
周りのせいではない。私のいろいろな判断が間違っているのだと思う。

つながりたくないのに発信はするという矛盾。

いままでこんなブログを読んでくれていた方やリンクを張ってくださった知人友人には大変申し訳ないのだけど。
そんなことを考えている。
それではしばらくさようなら。ごきげんよう。
05

09

23:21
Thu
2013

No.0166

夜の絵を描いている
あと人の居ない絵を描いている

外を観察している
夜、ギリギリの体力で自転車に乗って家を目指すと、風景はだいぶ歪む

それが面白いなと最近思う
ライトアップとゆうのは何か照らす対象がはっきりしているわけですけれど、そうゆんではなくて、ただ夜道の安全のため、または家々の夜更かしの灯り、誰も近寄ってこない自販機の明るさ、車のヘッドライト、が、照らそうと思って照らしたわけではない、建物や木々を照らしていて、それがとても面白くて、ついつい帰宅が遅れます。

何かに向けて描くことに追われて居ないので、感覚がだんだんと青臭い感じになっていっていて、それがとてもたのしい。

見る とゆうことを大切にしている
大切にしすぎて、すこしからまわるし重たくなってしまうけれど目からの情報には敏感でいたい。

写実とゆうのは多分全体ではなくてよくて、一部でよくて、絵なのだから嘘でいいと思っていて、見えたままではなくて、印象の強いものに忠実に手を動かしている、大きさとゆうのは当たり前で、それは、物理的なもので、それだけではダメで、だけど昼間はそうゆう当たり前のことが至極当たり前にあるべきな雰囲気とゆうか無意識があっていけない


夜は歪む、光で、歪む。
だから、たのしい、夜の絵を描いているよ。メルヘンでも現実でもアートでもないよ。
それは憧れかもしれない、でもわたししかかけないものをかくよ。


夜の絵を描いている、最近。
おしまい。
05

02

12:57
Thu
2013

No.0165

不安のようなもの/片山高志個展感想




人間の目(脳)は人間の顔が大好きなんだそうだ。

以前、テレビで人間の目は二次元でも三次元でも人間の顔と認識できるもの(本当は顔でなくても)を見つけ、その際に活発に動く脳の部分があるとゆう実験をみた。
果物や野菜でひとの顔を形成している写実絵画を見ても 人間の脳は人の顔だと判断し興奮していた。
それを見ていて、人は得体のしれないものの中に人の顔を見つけるとほっとするのかもしれない、と思った。


片山さんの描く絵には顔がない。

各シリーズごとに絵の雰囲気はだいぶ異なるが何れも描かれた人たちに顔がない。後ろを向いていたり、卵だったり、日常で目にする何かしらの物に顔/頭が置き換えられている。

私はそれを観てとても「不安」になる。哀しいとか寂しいとか強烈な衝撃とかそうゆうんではなく、じわじわと不安になる、それは画面に顔がないからそう感じるのかもしれない。
各シリーズ、違う「不安」と対峙させられたように思う。その絵を見て何かしら具体的な不安を抱いたのではなく、身に覚えのある「不安」の感覚が改めて呼び起こされ指摘されたような感じ。

on the road の作品群では小さな画面にたくさんの人達をがいる。それぞれカラフルでポップ、大きなハンバーガーやお財布、林檎、ドーナッツに顔をつっこんでいる人たち、その周辺でカラーコーンの頭をした作業員が子どもを担架にのせて誘導したり、升の頭の男性が犬の散歩をする、チェスの駒の頭のふたりがテーブルで向かいあって座り、蛇口が頭のひとが四つん這いで地面を濡らす、スーツを来た男たちの腰や背に後ろ姿の女性が腰掛ける、道の端で腰掛けるひとは皆何処かくたびれているように見える。てんでバラバラのようで何れも繋がっているようにみえる。

目でひとつひとつを追う時、電車や駅、街中でふと感じる不気味さがこみあげてくる。
ここに居合わせている人達には私と同じように脳みそがあって其々が銘々に色々なことを考えている、たとえば着ている服も持っている鞄も其々が各々の場で良しとしたものを買い、今朝良しとしたものを身につけ、出かけて来ている、同じように見えるのは見えるだけであって、人間が当たり前にウヨウヨいるとゆう不気味さ。意識をしないだけでそこに思考があるということ。
こういうことを絵の前で感じるとゆうのは面白いと思う。何だか逃げられない不安で かと言って私が生きて行くことになんら影を落とさないものでありながら目が離せない不安。意識しないで生活している他者を改めて提示されたような。わたしが関係のない人と判断するように街中で私も関係ないと判断されている。勝手にレッテルを貼られ勝手に取捨選択される。漠然とした不安。情報の多いカラフルな不安。

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Pararell scenery シリーズの前ではまた違う感覚になる。色調も on the road とはだいぶ違う。ベースとなる色の上に黒の濃淡で街並や花、家、木々、犬の背中などが描かれている。
とても静かな絵のように見える。雑踏で感じるような騒々しい情報量はなく、切り取られた場面の光景、懐かしいようで全く知らない景色、裸の女性がこちらに背を向けて向う側へ歩いてゆく、傘をさし顔の見えないひとが道を歩く、ひとがいるのにひとの気配がしない怖さ。

1人で夜中、考え事をしながら歩いていたら知らない道に迷い込んでしまったような、不安。世界にはわたししかいないような、知らないひとばかりのような、そもそもこの世界をわたしが知らないような急に押し寄せてくる静かな不安。そんな感じに似ている心地よさと同時に身体の端からじわじわと不安になってゆく。でも何を?何を確かめたらいいのだろう、というような感覚。

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絵から受けるこういったイメージとは別に細かく描き込まれたものをじっくりみてゆくとゆうのは心地よい。
細かく描かれた絵は作者の意図とは別に鑑賞者が勝手に見つけて、ふふふと持ち帰れる宝探し感があるからかもしれない。実はこうゆうのが描き込まれてて私はそこが気に入ったみたいな、それぞれ何かしらを持ち帰るんだろうなって思う、帰り道、駅を目指しながら、傘をさす後ろ姿を目にして前を歩くこのひとはどんな顔をしているんだろうと思った。


頭の中に余韻の残る展示でした、目にしたものは不安でもそれは刺激だったんだと思う。滑り込み観にゆけてよかったです。おしまい。



05

02

00:16
Thu
2013

No.0164

丁寧に呼吸をして暮らすこと/ nell.個展感想





丁寧に生きなさいと誕生日に言われて数年経った。

最近はいろいろなひとに穏やかに生きなさい、穏やかに過ごせますように、と言われる。

そう簡単にクリアできる目標ではないし、生きるって一日二日のことではなくて積み重ねであるのは当然であって、そうそうに「最近、丁寧に生きてますね」とか「穏やかに過ごされてますね」とかそういうもんではないだろうけれど、まだまだというか、丁寧には程遠く生きていて、そもそも積み重ねとゆうことに遠いのか、だからこそ穏やかにと声をかけられ色々と案じられるのだろうと思う。

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丁寧に呼吸をしているようにみえるひとがいる。
私が勝手にそう思っている。言葉と言葉の間に丁寧な呼吸/考えがあるようにみえる。

先日、nell.さんの個展「LIVING」を覗いた。
驚いたのは色彩。きっと占いをしていたのに席を立って出迎えてくれた作家の肩越しに作品の色と目を合わせてしまった。

絵の前でゆらゆらとしたくなる深緑や群青色を操るイメージだったので目の前の明るい色に混乱する。
深海か森の奥から出てきて息継ぎか挨拶をしているみたいだって思った。上手く書けないのだけど そう思った。

息をして生きてる、いま なのに懐かしくて、いま なのに未来で、絵の中の空気が優しくて、自然に濁っていて、でもたぶん明確で。
だんだんと、そちらが出てきたのではなくてこちらが招かれたのだと感じた。
嘘かもしれない、つくりものかもしれない、でもここにある、いつもの色の海の森の奥にある部屋みたいなところに ほんの少し招かれているのかもしれないって思った。

絵の中のふたりに表情はないのにあたたかいと思うのは距離なのか色なのかとかぼんやり思う。
救われるような呼吸。
絵の前での自然な息継ぎ、身体がふわっとするような。

でも本当に私が救われたのはドローイング群で。ああ、よかったと涙が出そうになった。
たとえばリビングのテーブルの下で何かを思うとき それは暖かいだけの穏やかさではなくて、たとえば夜ソファの端で感じる世界の終わりの気配みたいなものは在って、丁寧な呼吸の間には混沌とした思考もあってめまぐるしい情報や駆け抜ける感情があって、そうゆうことを、過去現在未来のことぐわーと思ってこころが騒ついた、ドローイングのラインを目で追って。

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私はたぶん丁寧にも穏やかにも生きられなくて、でも、一瞬一瞬をちゃんとみようと思う、それは恐らく丁寧への 別のアプローチで、穏やかとゆう言葉に押し殺された混沌と向き合うことでのある種の穏やかさであって、なんだろう、薄っぺらい哲学の上に座って頭を右左ぐるぐるしてこうと思う、思うような、なんだろう、勝手になのだけど、ああ、このままでいようと思えるような気持ちになれる、展示だった。


うぬ、言葉にすると浅い、切ない、おしまい。



05

01

22:45
Wed
2013

No.0163

映像のような


怒涛の感想ラッシュ、する、書く。
感情は腐るし、感想は時間が経つほど乾く。

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3/30
新田さんの展示を観たあと、恵比寿へ。写真美術館で、マリオ・ジャコメッリ。
どうでもいい理由で感想を書くのを躊躇していた。
オシャレ写真の展示も観るんですみたいな、きっと文章にすれば薄っぺらで、なんか、気取っているようで痛々しくていやだなと捻くれ。


写真作品は苦手だ。
その理由はいろいろあるけれど 唯一性とゆうか( なんとゆうのだっけ、大学で習ったな…)それひとつしかないひとつしかないことの貴重さ、ありがたみが、ないからかもしれない。

たとえば日本で多くの人が言葉を話して文字をかけてある程度文章を書けるように、今の時代携帯を構えて親指でボタンを押しさえすれば写真は撮れる、誰でも撮れる。
だから 誰でも書けそうな文章が退屈であるのと同じように作文に毛の生えたおままごとのアマチュア小説(とゆう名詞を使うのも気が乗らない類の文字の羅列)を観て、感動しないように、写真も、本当に撮っている感がないとこころが揺るがない。
綺麗なだけ、過激なだけ、揺るがない、なんだろう、みんな使えるものだからこそ、芯がないとコメントのしようがない。

かといって報道写真を美術館で観るのも苦手で、歴史写真を観るのも苦手だ。きっと紙媒体で、私が観る/観ないの主導権を持った状態で接することが当然になってる。

好みだ、写真は苦手だ。

でも絵のような写真は好きだ。ああこれを写真でやられてしまうともうおしまいだと思ってしまうような写真は好きだ。
でも流行りの極彩色で美男美女がキメポーズをかましてる、某写真家の作品はあんまりすきではない。

話がどんどんずれてゆく。
結論、ジャコメッリの作品はとても好きだった。
白黒のコントラスト、余白、言葉。映画みたいだった。絵画展みたいだった。観ているのが辛かった。でも目が離せない。生きなきゃと思った。「なきゃ」とゆうより、あーわたし生きてんだわ、いま、この瞬間と思った。

酔っ払う写真だった。
媚びない、けど、魅せてる。

「白、それは虚無。黒、それは傷痕。」

彼の言葉で展示会の見出しにもなってる言葉、それもよかった。でも余白は虚無ではなくて、余白だって傷痕で、脳味噌がプツプツプツした。


浅い。文字に起こすと浅い、むなしい。洋書の作品集欲しかった。脳味噌がプツプツプツするような映像みたいな絵が描きたい。


おしまい。



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